誰一人として愛さなかった化け物か、ただ一人だけは愛した化け物かの物語であり、寄河景という人間そのものを謎としたミステリーです。(原作/作者あとがきより)
2025年10月24日に公開された映画「恋に至る病」
私自身、原作が非常に好きな作品であったので公開初日に観に行きました。
原作は読者に考えさせるシーンが多く、考察しがいがあるところがこの作品の面白さであると思います。
そして映画もその良い味を残した構成となっていますが、うーん、個人的には原作の方が好きかなーというか、映画の内容だと説得力に欠ける部分が多いなと思いました。
実際の所、映画が終わったあと、自分の隣に座っていた女性二人組が「え、どういうこと?」みたいなリアクションをしていたので…。
この記事では、「映画の感想」と「小説の考察」を両方織り交ぜて書いています。
映画を観て、イマイチピンとこなかった方には、ぜひ原作を読んでいただくと色々とスッキリするんじゃないかと思います。
この物語のポイントは3つ
- ラスト4行・消しゴムの意味
- 宮嶺は、寄河景にとっての『特別』だったのか
- どこまでが寄河景の筋書き通りだったのか
スピンオフ作品「病に至る恋」の記事はこちら↓↓
『病に至る恋』感想・ネタバレ|見えてきた寄河景の正体と本心
この記事は、物語の重大なネタバレを含んでいます。
目次
【映画版】恋に至る病 あらすじ
内気で引っ込み思案の転校生・宮嶺望。
転校初日の挨拶で言葉が出ずに固まってしまった宮嶺を、昔からの知り合いのフリをして救ったのが向かいの家に住む寄河景だった。
華やかで優秀な景は学校一の人気者。なぜか最初から宮嶺に親し気に接してくる景に、宮嶺は心を寄せてゆく。
不器用に惹かれ合う2人だったが、課外ボランティア活動の最中に決定的な出来事が起こる。
1人の少女の風船が風に飛ばされ木の枝に引っかかっているのを、ジャンプして取ってやろうとする景。
居合わせた宮嶺が心配気に見守る中、足を滑らせ転落した景は顔や足を負傷。
自分がかわりになればよかったと自らを責める宮嶺だったが、ケガが治るまで学校を休むことになった景と、密かにデートを重ねていく。
一見高校生らしい健全なデートの中で、ふと“ブルーモルフォ(=青い蝶)”というゲームサイトの名前を明かす景。
ゲームマスターからプレイヤーに送られてきたミッションをひとつずつこなしていくと、最後に必ずプレイヤーは自殺してしまうという不気味なサイトだ。
そのときはそんなサイトの存在など、気にも留めなかった宮嶺。
それよりも顔の傷跡を気にして学校に行くのを渋る景に、「もし傷のことを悪く言うやつがいたら、僕が戦うよ」と力強く宣言する。
「宮瀬、私のヒーローになってくる?どんなときでも、どんな私でも守ってくれる?」
「うん」
だが、景に恋心を寄せるクラスメイトの根津原あきらは宮嶺をあからさまに敵視し、陰湿で残酷ないじめが始まる。
体中傷だらけになりながらも、懸命に耐え続ける宮嶺。
根津原に怒りをぶつける景もまた、根津原から体育倉庫に閉じ込めえれてしまう。
そんなある日、突発、根津原が転落死。
宮瀬に平和な日常が訪れるも、彼の胸にはひとつの疑念が湧きあがる。
「もしかして君は、僕のために人を殺したの?」
「……私のこと嫌いになった?」
「嫌いになんてなるわけない!」
美しき殺人犯へと変わりゆく景。それでも彼女を愛し、守り続ける宮嶺。
2人の周囲では同級生たちの不審死が続発。“ブルーモルフォ”が関連していると判明し、ついには警察も動き始める。
果たして“ブルーモルフォ”のマスターは景なのか?
「世界中の人が景を許さなくっても、僕は景が好きだ」
「やっぱり宮嶺は私のヒーローだ」
切なすぎるラスト4分。
【彼女の本心】が明かされる――
映画『恋に至る病』感想・考察
ラストシーンの消しゴムの意味
まず、この物語の一番の見どころはラストシーンの消しゴムで間違いないでしょう。
映画では寄河景の宝箱の中から、宮嶺のすみっコぐらしの消しゴムが見つかります。
物語の途中で語られていた通り、「好きな人から消しゴムをもらうと両思いになる」という都市伝説があります。
つまり、「寄河景は宮嶺と両思いになるために消しゴムを盗んだ」というのが映画を観ての素直な解釈であり、寄河景は宮嶺のことが本当に好きだったということになります。
ですが、おそらく原作を読んだ方はラストシーンに全く違う感想を抱いているはずです。
根津原から宮嶺へのいじめが始まったのは、「宮嶺の消しゴムが盗まれたこと」からであり、つまり「根津原が宮嶺をいじめたのは景の策略だった」というのが、ラストシーンの消しゴムが持つ別の意味です。
原作にはなく、映画にだけ登場した根津原の印象的なセリフがあります。
根津原が景を突き飛ばして、跳び箱の中に閉じ込めるシーン。
いつまでも、俺がお前の言う通り動くと思うなよ
このセリフを聞いた時はぞわっとしました。
これは「根津原は景の指示通りに動いていた」ということの証明であるからです。
宮嶺と景の関係は、単純な恋人同士という言葉では言い表せません。
実際は景が宮嶺を利用して操っていたという解釈。
その一方で、いや、景は本当に宮嶺のことが好きだったという解釈。
この2つの解釈のぶつかり合いが、小説「恋に至る病」の最大の面白さでした。
ですが、映画を一度見ただけの方に、その面白さが伝わったのか…、ちょっと不安です。
景はブルーモルフォの真のマスターだったのか?
さて、私が映画を観ていて一番混乱したのは、「景はブルーモルフォの真のマスターだったのか?」という点です。
映画の途中でブルーモルフォのマスターらしき中年男性が捕まっていますが、その後、飛び降り自殺をした先輩(善名美玖利)が真のブルーモルフォマスターの存在をほのめかしていました。
「本物のマスターって全然違うの」と。
映画のパンフレットにも、「果たして“ブルーモルフォのマスターは景なのか?”」という問いかけがあります。
自殺した善名美玖利はブルーモルフォのプレイヤーであり、彼女の自殺を止めようとした景が、実はブルーモルフォのマスターだった…。
…というのが、映画だけを見た方にとっては面白い考察になるかと思います。
ですが、原作では景がブルーモルフォの真のマスターであることは明言されていて、積極的に多くの人物を自殺に導いているんですよね。
なので、なぜこの部分を映画ではぐらかしたのか、あまりピンと来ませんでした。
ただ映画のパンフレットにはその答えが示されていました。
原作者である斜線堂有紀さんのインタビューページです。
印象的だったのは原作の景は自ら積極的に“ブルーモルフォ”を動かしていますが、映画の景は他人を動かすことに苦悩している感じがあること。原作の景より人間らしい葛藤がありつつも止まらないという表現が、個人的にはいいなと思いました。
原作の景は、“本心が分からないサイコパス”であることが魅力のキャラクターです。
一方で映画の景は人間らしい等身大の女の子といった部分を出そうと改編が加えられています。
原作よりもサイコパスのレベルを下げて、恋愛要素をプラスした、といったイメージですかね。
“恋愛映画”を観たかった方にはよい改編だったと思いますが、個人的にはサイコパスな寄河景というキャラクターが好きだったので、イマイチに感じてしまいました。
なぜ景は宮嶺を好きになった?
この映画を観て、説得力に欠けてしまうのではないかと思う部分がいくつかありました。
もちろん重厚な小説を2時間足らずの映画に落とし込むのは不可能なので、仕方ない部分もあるかと思います。
まずは、宮嶺と景の距離感です。
原作では二人の出会いは小学生であり、そこから時間をかけて距離を縮めていきました。
ですが映画では2人の出会いは高校生。
課外ボランティア活動中の事故があったとはいえ、クラスのヒロインである景が、地味なモブキャラである宮嶺のことを短期間で好きになるのは、かなり無理があるのではないかと思いました。
景が宮嶺のことを好きになった理由がイマイチわからず、「景が宮嶺を利用していた」というイメージを助長してしまうのではないかと思いました。
ただこちらも映画パンフレットに面白い記述があったので紹介します。
普通に考えたら“なんで景みたいな子が、宮嶺を好きになるの?”と思う。でも景は宮嶺が自分にないものを持っていることへの恐怖感があるのかなと。
景は蝶が生まれ変われるようにどこかで“生まれ変わり”を信じてしまっているけど、宮嶺は現実的にそんなことはないと思っている。
そういう強さに景は憧れたんじゃないかな。互いが足りないものを補い合うようなバランスの良さがあった気がします。(監督)
こちらは監督さんのコメントですが、面白い解釈だと思いました。もしかしたらこの解釈からスタートして、映画の景のキャラクター像を決めていったのかもしれませんね。
景の人を操る能力
もう一つ、映画で説得力が欠けるのではと思ったのが、「景が人を操ることに長けた人物」であることが映画の鑑賞者に伝わったのかどうか。
映画の景は「ごく普通の女の子」といった要素が強調されています。
「景がクラスの人気者」であることは伝わったと思いますが、様々な言動や行動により他者を操る人物というイメージはつかたなかったのではないでしょうか。
課外ボランティア活動に、景が参加することで他のクラスメイトも参加するといったシーンは描かれましたが、原作の景の魅力である「言葉巧みに他者を操る」という側面は分かりにくかったと思います。
その他の気になったシーン
物語の途中、宮嶺が景の家を訪れます。
その際、景の家の壁にブルーモルフォのミッションが掛かれた付箋が貼られていましたが、付箋が隠されることなく目のつく場所にあったのは違和感がありました
ニュースになっている通り、この物語の世界ではブルーモルフォはかなり認知されており、景の両親も知っているはずです。
自分の娘の部屋にブルーモルフォのミッションの付箋があるなんて、恐ろしすぎます。
景は自分がブルーモルフォのマスターであることは隠そうとしていはずなので、あの付箋はかなり違和感がありました。
【小説】恋に至る病 あらすじ
”僕の恋人は、自ら手を下さず150人以上を自殺へ導いた殺人犯でした――。”
「恋に至る病」は、「流される人間」を粛清していく少女と、その1番近くにいた少年の、歪な関係を描いた作品。
主人公の転校生・宮嶺望は、自己紹介の際、不思議な魅力を持つ美少女であり、クラスの中心的な女の子、寄河景に助けてもらう。
それ以来話すようになるが、校外学習での事故をきっかけに、宮嶺は景のヒーローとなることを約束する。
だが校外学習の翌週から、消しゴムを盗まれたことを手始めに、宮嶺は同じクラスの根津原から壮絶ないじめを受ける。
いじめが起きた時はその記録としてか、『蝶図鑑』というブログに宮嶺の手の画像がアップロードされた。
景はそれを知り、根津原を自殺に見せかけて殺してしまう。中学時代、根津原の死の真相を景から直接聞いた宮嶺は、今後何があっても景を守ると誓う。
高校に上がると景はますます美しくカリスマ性を発揮し生徒会長になる。宮嶺も副会長となり、あるとき後輩の言葉をきっかけにお互いの気持ちを確かめ合い付き合うことになる。
高校に入ると宮嶺と景は恋人同士となった。
一方で身の回りで中高生の自殺率が異常に増加し、「青い蝶(ブルーモルフォ)」と呼ばれる自殺教唆ゲームが噂されるようになった。
ブルーモルフォのプレイヤーは50日に渡ってマスターからの指示に従い、50日目には最後の指示に従って自殺する。
そして景は「プレイすると死ぬゲーム」である「ブルーモルフォ」のゲームマスターが自分であると告げる。
根津原のいじめの際見て見ぬ振りをしてきた同級生たちのように、人に流されて自分で考えられない人たちを排除すれば世界は変えらえるという。
「私は宮嶺が好きだから、ブルーモルフォを創り出せた。だから、これが愛の証明」。
そして「私が間違っているのなら、今ここで宮嶺が止めて」と景は言う。
宮嶺は困惑するが、「大丈夫、僕は景の味方だよ」と、結局は景を見守ることになる。
景を守るヒーローになるつもりだったが、景の殺人を肯定することしかできない。ブルーモルフォが廃れていくことを願ったが、どんどん洗練されて死者が増えていくだけだ。
ブルーモルフォの偽サイトも乱立し、その偽サイトから自殺する人まで出始めた。
ブルーモルフォは存在するだけで人を死に至らせる病に進化を遂げた。
時が経ち、景がブルーモルフォのゲームマスターをやめることができるかもしれないと思う出来事が起こる。
小学校で景と親しかったクラスメイトの緒野江美がブルーモルフォの偽サイトのせいで自殺してしまったのだ。
結局、景はブルーモルフォを続けたいのだと悟る。
「景は、多分、良い人間ではないんだね」
「そうだね。私はきっと化け物なの」
「……僕は正義の味方じゃない。景の、ヒーローだから」
やがて、宮嶺はブルーモルフォを終わらせる決意を固める。
それを知った景は再び同級生の善名の自殺を止めることで、宮嶺が正しいか自分が正しいかの勝負をし、自分が勝ったらずっとそばにいてくれと頼むが、「景がいると生きたくなってしまう」と善名に刺されてしまう。
宮嶺は、景がどれだけ救いようのない殺人犯でも、自分を救ってくれた大好きな存在なのだと思う。
そして、景のポケットから転がり落ちた「小学生の頃に盗まれたはずの消しゴム」を見て、景が地獄に堕ちるとしても、ずっと味方で守ると誓う。
景は結局、宮嶺の腕の中で死ぬ。その後、宮嶺はブルーモルフォのプレイヤーにぼこぼこにされ、ブルーモルフォのマスターとして逮捕される。
刑事たちには、景に騙されていただけで被害者なんじゃないかと詰められるが、あくまで自分がマスターであり、景こそが自分に言われて行動していたのだと言い張る。
【小説】恋に至る病 ラスト4行の意味
僕の目の前には、透明な袋に入った消しゴムが置かれている。
半分ほど使ってあるそれには、滲んだインク汚れが付着していた。
何も知れない人が見れば、それが何かは分からないだろう。
けれど僕は、それが自分の名前であることを知っている。
本作『恋に至る病』において、強烈なインパクトを残したのが、ラスト4行です。
この部分については様々な解釈がされており、明確な答えは作者以外誰にも分かりませんが、主に2つの意見があります、
- 消しゴムは寄河景が根津原に命じて盗ませた、つまり宮嶺へのいじめは寄河景が首謀していた
- 「好きな人の消しゴムを貰えれば両想いになれる」という小学校で流行ったおまじないであり、景は亡くなるその日まで、宮嶺を想いポケットに消しゴムを忍ばせていた
これについては、個人的には①の意見よりですが、改めて読み直して、②の要素もあるのではないかと考えています。
まず、寄河景が宮嶺へのいじめを先導した理由ですが、これはシンプルで「宮嶺を完全に自分のコントロール下に置くため」です。
宮嶺をとことん追い込み、弱らせたところで寄河景が救えば、宮嶺にとって寄河景は完全なヒーロー。
寄河景は他者を洗脳・マインドコントロールすることに長けた人物であるため、宮嶺を洗脳することは難しくはなかったでしょう。
6年生の時、根津原の取り巻きの一人である天野が、
何故か怯えたような顔をして、小さな声で呟く。
「お前が、お前の所為で、寄河に――」
と言って走り去るシーンがありました。
いじめが寄河景にバレたことが判明したという描写があった直後のシーンなので、初めて読んだ時は、「お前をいじめたせいで寄河景に嫌われた」という意味かと思っていました。
ただ、物語を再度読み返すと、「お前の所為で寄河景に脅されて、いじめをしなければならなくなった」という意味に捉えられます。
寄河景に嫌われたくないだけであれば、怯えた顔をする必要はないですからね。
根津原が死んでから、僕の人生は劇的に変わった。
と宮嶺が実感している通り、いじめによるマインドコントロールの効果ははかりしれません。
後に自作自演であったことが判明する校外学習の事故で、宮嶺に罪悪感を抱かせたのもマインドコントロールのひとつ。
小学6年生の時点で、既にブルーモルフォ(青い蝶)のスケープゴートにしようという、壮大な計画を考えていたとまでは思いません。
この時点では、他者を洗脳する実験のひとつくらいの感覚だったのではないでしょうか。
その後、恋人同士になって以降は、宮嶺をスケープゴートとして利用していたことはほぼ間違いないのですが、わずかな恋心というか、歪んだ愛情もあったのではないでしょうか。
というのも、宮嶺を利用したいだけであれば、小学生時代の消しゴムをわざわざ大切に保管しておく必要はないからです。
自分の手を汚さず他人を意のままに操ることに長けた寄河景のことですから、消しゴムは自分で盗んだのではなく、おそらく根津原に盗ませたのだと思います。
そんなものは、わざわざ根津原からもらう必要もなく、捨ててしまえばよい。
宮嶺は寄河景の家を何度も訪れているため、そこで消しゴムが見つかってしまえば、洗脳が解けていた可能性もあります。
そういったリスクもありながら消しゴムを大切に保管していたのは、小学生の頃から宮嶺に抱いていた特別な感情を、寄河景が大切にしていたからだと思います。
ただ、それは恋心ではなく、かなり歪んだ愛情だと思います。
もうひとつ、寄河景が宮嶺に惚れていたと考えられる記述があります。
それは、寄河景が死ぬ間際に残した言葉。
「私は、宮嶺を傷つけられた時から、…私の中に、ずっと消えない炎があるの…私が、もし、普通の女の子だったら、」
この言葉には強烈な違和感がありました。寄河景がいじめの首謀者であれば、「宮嶺を傷つけられた時から」ということは言わないはずです。
【小説】寄河景はなぜ宮嶺に執着していたのか?
誰一人として愛さなかった化物か、ただ一人だけは愛した化物かの物語であり、寄河景という人間そのものを謎としたミステリーです。
超絶美人で誰からも好かれていた寄河景が、なぜあれほどまでに宮嶺に執着していたのか。
刑事の入見遠子が推察した通り、自分のスケープゴートを用意することが理由のひとつ。
「改めて言うよ。私の傍にいて。君が私の正しさを観測して」
言葉巧みに宮嶺を操り、スケープゴートとして利用しようとしていたのは間違いありません。
ただ、宮嶺に執着していた理由はそれだけではないはずです。
なぜなら、スケープゴートであれば宮嶺でなくても、他の誰かでも良いから。
正直なところ、誰でも良かったとは思いますが、その中でも宮嶺を選んだ理由がなにかあるはずです。
考察① 宮嶺の顔立ちが良かったから
「宮嶺は綺麗な顔をしているね」
不意に景がそう言った。
これは中学時代の修学旅行でのシーン。
正直なところ、宮嶺はかなりの陰キャだと想像しながら読み進めていたのですが、顔立ちは良かったのではないかと推測されます。
「お前女みたいな顔してるしさ、キモいんだよ」(根津原)
その点も、根津原のいじめを助長する要因になってかもしれません。
寄河景は宮嶺を転校初日から助けていますが、簡単に言うと、一目惚れのようなものではないでしょうか。
その時点で100%の好意を頂いていたとは思いませんが、好感を頂いていたのは間違いないでしょう。
誰かをスケープゴートに選ぶとしても、多くの行動を共にするのであれば、なるべく好きな人といたいですからね。
考察② 宮嶺が洗脳しやすい人物だったから
宮嶺が「洗脳しやすい人物だったから」というのも大きな理由だと思います。
仮に宮嶺に友達が多いのであれば、寄河景にあそこまで依存することはなかったでしょうし、友人の助言により洗脳が解けていた可能性もあります。
また、小学校の頃に宮嶺が不眠症で寝不足になっていたことも洗脳しやすい要素のひとつ。
完全に流されやすい人よりも、ある程度の信念・正義感を持っている人の方が洗脳しやすいのではないかと思っているのですが、その点でも最適だったのではないでしょうか。
僕は景を怪我から守り、世の中の理不尽から救う、そういうヒーローになりたかった。けれど、僕が出来るのは彼女の殺人を肯定することだけだった。
宮嶺も結局は、大半の人間と同じような「流されやすい人」だったと思います。
ですので、スケープゴートとして利用していたが90%、わずかな恋心10%、そういったところでしょうか。
考察③ 色々な人を試して、宮嶺が最も理想的な反応をしたから
「宮嶺は私のヒーローになってくれる?」
これが自分の人生における最上の瞬間なのだと、幼いながらに確信していた。
少し飛躍した推測ですが、宮嶺にとって残酷なことを。
寄河景にとってスケープゴートにするのは誰でも良く、宮嶺に対してしたようなアプローチを他の誰かもやっていたのではないでしょうか。
誰もが欲しがっている夢を与えるのが特別上手い。僕だって、その手管に絆されている。
寄河景が色々な人を操ってきたことを、宮嶺は知っています。
「宮嶺は私のヒーローになってくれる?」
宮嶺の心に深く刻まれているキラーワードです。
そして、「僕が景のヒーローになるよ」と宮嶺は応えます。
寄河景は同じようなセリフを他の人物にもしていた、そして宮嶺がそれに答えてくれた。
小学生の事件から、高校生になって恋人同士になるまでは、それなりの年数が空いています。
その期間に様々な人物にアプローチを試みて、その中でスケープゴートとして宮嶺が最も適切だと考え、恋人同士になることした可能性があります。
寄河景にとって宮嶺は、最初は特別ではなかった。だが、宮嶺がそれに答えたから、特別な存在になった。
こう書くと、なんだかますます恋人みたいですね。
なお、寄河景は善名美玖利の自殺を一度防いでいますが、これは本心から救いたかったわけではなく、どうすれば極限状態の人間を意のままに操れるかテストしていたのではないかと思っています。
考察④ 物語を描きやすかったから
「人には物語が必要なんだよ」
「ブルーモルフォの為に死んで、死後の楽天に転生して幸せに暮らす為だったんだって、そういう筋道立った物語が欲しいんだ」
景はブルーモルフォを止めたくなかったんじゃないだろうか?
だから、回りくどい『物語』を用意したのだ。ただ一人、僕の為に。
「私の物語は、ブルーモルフォは負けない」
洗脳術に長けた寄河景は、様々な場面で物語を作ることにこだわっています。
筋道を立てて物語を作ることで、洗脳しやすくなるのは間違いありません。
寄河景がブルーモルフォの運用を開始し、スケープゴートを用意しようとしたとき、小学生時代から様々な縁がある宮嶺は、物語のキャストとして最適だったでしょう。
【小説】恋に至る病 「やっぱりそうか」の意味
「私は凄く諦めが悪いんだ。それにエゴイストでもある。自分の思い通りにならないと気が済まない」
他者を洗脳し、意図通りに操ることに長けている寄河景。
150人以上を自殺に導いただけでなく、小学生の友人に根津原を殺させるなど、その能力は群を抜いています。
果たして本作は、どこまでが寄河景の筋書き通りだったのでしょうか。
これについては、やや乱暴な意見ではありますが、本作で描かれたことは、寄河景の死に至るまで、全て彼女の思い描いた通りだったのではないでしょうか。
「やっぱりそうか」
その言葉を景はどんな意味で言ったのだろう。彼女の声は勝ち誇っているようにも、全てを諦めたかのようにも聞こえた。
寄河景の言葉では自殺を止めることなんか出来ないのだと自嘲したのか、あるいはブルーモルフォの魔力が本物であることを誇っていたのか、僕には分からなかった。
この物語の重大な謎のひとつが、寄河景が死ぬ間際に残した「やっぱりそうか」の意味。
これは想像でしかないのですが、善名に刺されることすら寄河景の想定内だったと思います。
だから、「やっぱりそうか」と言った。(刺されると分かっていて避けなかったのは謎ですが…)
ただし、いくら寄河景であっても、全ての人間を完璧に操ることはもちろんできません。
迷いや葛藤、不確定要素があった。ブルーモルフォにしても、自分が正しいことをしているのか、疑問に思うこともあった。
だから、宮嶺に「私が間違っていたら止めて欲しい」と何度か聞いた。
ただし、いよいよ宮嶺が寄河景を止めようとした段階では、洗脳の快楽がはるかに上回ってしまった。
それでもほとんどのことは彼女の想定通り進んでいた。でも分からないこともあった。
だから、最後に賭けをした。
「…ブルーモルフォは…完璧だった、私は間違えなかった、私は、」
私は間違えなかったということは、間違えた人もいる。
これは最初ブルーモルフォの偽サイトのことだと思いましたが、ブルーモルフォを止めようとした宮嶺のことを指しているのかもしれません。
恋に至る病 元ネタ・モデル
本作品で題材となっている自殺教唆ゲーム「青い蝶(ブルーモルフォ)」は、「青い鯨(ブルー・ウォール・チャレンジ)」という実際にロシアで発生した自殺コミュニティによるゲームが元となっています。
自殺コミュニティの参加者は、管理者から50日間にわたり毎日異なる課題を行うようSNSを通じて要求され、その証拠の画像をSNSへ投稿し、報告するよう求められる。
その課題は次第に過激なものへとエスカレートし、最終的に自殺を指示される。
にはこのような「死の集団」と呼ばれる自殺コミュニティが少なくとも8件確認されている。
作者の斜線堂有記さんもこの事件から物語の着想を得たとXでポストしていますが、まさにゲームの内容は完全に一致。
相手の心の弱いところを突き、自分がどれだけ生きている価値が無いか、どれだけ愚かで、どれだけ死んだ方がマシな人間かを教え込むのだ。そして時間を置き、今度は手を差し伸べる。
『けれど、あなたには特別になれる可能性がある』
『ブルーモルフォを最後までプレイした人間には、この苦しみから解放される権利を与えらえる』
『あなたならそれが出来る』
指示を出し続けることで課題達成へのハードルを下げる。クラスタを作り相互監視のシステムを作る。否定と肯定を操って相手の自我を崩す。睡眠時間を削り、思考力を奪う。時折、ご褒美のように、欲しい言葉をあげる。
典型的なマインドコントロールですね。
悪質な宗教団体やネットワークビジネスも似たような構造だと思います。
洗脳は本当に怖いもの。宮嶺がそうだったように、洗脳されていることを気づかせないのが一流ですよね。
ただ、自宅に引きこもった小学生の友人・氷山麻那には本性を見抜かれていたので、寄河景も甘いところはあったと思います。
小説考察 寄河景がやり取りをしていた特別な相手とは?
その他多くのメッセージとは違い、その相手とのやり取りには、星でマーキングが付けられていたのだ。特別な相手を示す記号だ。クラスタの有力者か何かなのだろうか。
第3章の終わり、寄河景が特別な相手とメッセージをしていることが分かります。
これは作中では明言されていませんが、おそらく警察の日室でしょう。
『でも、私があなたを見つけた』
『私はあなたのような人を待っていました』
他のブルーモルフォのプレイヤーと差別化したかったのは、日室は自殺させたかったのではなく、宮嶺の監視として利用したかったから。
もっとも、利用した後は自殺させるつもりだったでしょう。
日室がデスクに趣味ではない花を飾っていたのは、ブルーモルフォの命令の一環だと思います。
『あなたの罪は押し付けられたもの』
メッセージの中にこのような記述がありますが、これは、作中で明言されている「日高が拳銃で撃ってしまった」ということだと思います。
小説考察 根津原と寄河景の関係
『恋に至る病』は一部を除き、ほぼ全編が宮嶺の心理描写として成り立っています。
ここで気になったのが、根津原の心理がほぼすべて寄河景の言葉を通して、宮嶺に伝わっていることです。
例えばですが、
「…根津原くん凄く怖くて。私が宮嶺の名前を出すと一層怒って。…やだって言ってるのに、私をここに閉じ込めて」
このシーンは強烈な違和感がありました。いじめっこは、基本的に弱いものいじめをするもの。
どんなに気に食わないことがあったとしても、根津原がクラスの人気者である寄河景をとび箱に閉じ込めるでしょうか。
あるいは、こんなシーンもあります。
「…朝に、児童会室に来たんだよね。それで、謝ってはくれたよ。でも、不思議だから聞いちゃった。私に謝れるなら、どうして宮嶺には謝れないの?って。そうしたら、無視して行っちゃった。」
このシーンも、根津原の心情が寄河景を通して伝えられています。
実際の所、跳び箱に閉じ込めたのも、朝の謝罪もなく、寄河景の空想だった可能性は十分にあります。
さて、この他にもこの物語には様々な謎が残されています。
その一部が、2025年秋に公開される映画で明かされることを願っています。

